実相世界への橋と岩戸開きへの序論

ショッピングセンターを散策していたのですが、トイレに行きたくなったのでトイレを探して、入ったところ、かなり古いらしくて、和式便器で水をレバーで流す方式でした。

和式便器のレバーは低い位置にあるため、足で踏みつけて流すことが多いのではないかと思い、手で操作するのがためらわれました。

ですが、「トイレのレバーは汚れている」というのは、実は、私の心の中の信念なんですね。

もちろん、たいていの場合はトイレのレバーは汚れているものですから、それを無視するということではありません。

そうではなく、「トイレのレバーは汚れているから」と、レバーを手で操作することにためらいや抵抗が生じたのは、私の心の信念に心が反応しているということであり、実はすべて心の中のプロセスだということです。

このシンプルなことがくっきりと分かったので、ああ、そういうことかと、なんか納得しました。

繰り返しになりますが、普通は、トイレのレバーは汚れているものですから、これは、「汚れなどというものは自分が信じているに過ぎない」とかいって、トイレのレバーの汚れを否認することが「高尚な」ことだ、ということではありません。

あくまでも、自分の側で起きていることはこういうことだった、ということです。

なので、奇跡講座のワプニック博士の解説で、レベル1,2の区別がありましたが、あのレベル2はすべて心の中で起きていることであるというのは、つまりシンプルにこういうことだと私は感じています。

つまり、レベル2でのことは、具体的なこの世界においてではなく、すべて自分の心の中で起きていることなのですが、それは、知覚としては、この世界に重なっているように感じられます。

というか、自分は、そうした個人としての心を通してこの世界を知覚している、というような感じです。

ここから言うことができることが、一つあります。

それはつまり、自分は物理的世界の中で生きているのではなく、実は自分の心の中を生きているということです。

正確に言うと、自分の自我による解釈こそが現実だという信念世界の中を生きています。

ここの辺りを明確に区別するのが大変でした。

しかし、この区別が分かってくると、奇跡講座の実践は極めてシンプルになってきます。

奇跡講座で言う、自我を取り消すというのは、実は、この心の中の信念を訂正していくことであり、この世界自体がどうのではない、ということです。

例えば、誰か他の人が、自分を傷つけるような言動をしたとします。

そのときに、その人の振る舞いそのものは、実はニュートラルであり、そこに自分が、自分の自我の解釈を投影することによって、その人の振る舞いに自分を傷つけるようなものを感じた、ということになります。

これが、レッスン2で言う、自分が世界に、自分にとっての意味を与えているということです。

ただし、実際には、その「攻撃的な」相手は、実際に攻撃的なエネルギーを発しているかもしれません。

それは、現にそうであるように見えますが、しかし実は、そこに至るまでの関係性のねじれがこじれにこじれて、そのようになっているという場合があります。

そうすると、そうしたこじれた関係性の原因は現在にはありませんから、あたかも相手が自分を攻撃する人であるかのように感じられますが、自我を丁寧にほぐしていけば、そういうことは起こらなくなります。

つまり、その相手の姿は幻想なのです。

さて、自我による解釈とはどのようなものなのか、です。

例えば、メールやSNSの書き込みを見たときに、そこに何か、自分を攻撃するニュアンスを感じたとします。

そのときに、即座に返信してしまうのではなく、一度そのメールなりブラウザなりを閉じて、しばらく他のことをするなどして気分を変えてみて、しばらくしてからまたその文章を見てみると、必ずではありませんが、しばしば、前回見たときには明らかに感じられたはずの攻撃的ニュアンスが感じられなくなっている、ということがあります。

つまり、最初にその文面から感じた攻撃的なニュアンスは、実は、文面そのものにあるのではなく、自分の自我による解釈だった、というわけです。

これが、文面だけではなく、たとえばリアルに目の前にいる相手の姿に対しても、本質的に同じことが起きています。

そのぐらい、自分は世界も他者も、自分自身ですらも、何もかもを、自我による解釈を通して知覚しています。

もう一つ例を挙げます。

私は以前、ある本を中古で購入したのですが、その本は実は、図書館の放出品でしたが、その図書館というのが、なんと、若い頃に私が学んでいた大学の図書館でした。

ですが、その本を見ていたら、なぜだかわかりませんが、私がそこを卒業するときに、その本をこっそり持ち帰ってきたのではないか、というように疑われているような感覚がしてきました。

そこで浮かんできた感覚は、両親が私にすごく疑いを掛けている感覚でした。

もちろん私は、その本を正規の購入ルートを通して入手したのであり、当たり前ですが、大学の図書館からくすねたわけではありません。

ですが、まるで自分がそうしたのではないかとしか思えないほど、自分が疑われていて、そしてその疑念が内在化されて、今では潜在的に、自発的に自分を疑うような意識が、私の潜在意識にあったわけです。

自我による解釈というのは、そのように、そんなことはないはずなのに絶対にそうだとしか感じられない、というぐらいに、知覚を根底からゆがめ、また、ゆがんだ知覚を形作っているものなのです。

実際の世界にも、他者にも、自分の中にすらも、実はそんなものは何一つないにもかかわらず、そこにとんでもないものがあるとしか思えない、という強い感覚があります。

奇跡講座で取り扱っているのは、つまり、ここなのですね。

例えば、奇跡講座には「実相世界」という言葉が出てきます。

実相世界にもいろいろな段階があるようなので一概には言えませんが、少なくとも、すべてをありのままに捉えることができるようになったという意味では、これは、自我が一通り解消されて、世界や他者や自分自身のことがありのままに捉えられるようになった状態のことだと思われます。

「実相世界」と訳されているのは、元の英語では「real world」なのですが、まさにそのまま文字通り「現実の世界」「実際の世界」のことではないかと思われます。

例えば、レッスン132で、「これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ」というものがあります。

これもまた、これまで自分が思ってきた「世界」というものが、自我による解釈を通して知覚している世界のことであり、通常私たちは、その解釈が実際の世界だと信じていますが、実はそうではない、ということです。

そして、実際の世界に対して、自分が暗に想定している「世界」を押しつけて、それが実際にも世界なのだということにして、世界を自分にとってゆがんだものとして知覚している、ということになります。

そうすると、世界は自分にとって、まさに自分が想定したとおりにしか展開しなくなります。

しかし実はそれは、世界自体に内在している力による現実展開とは全く異質なものであるため、自分の知覚世界と実際の世界との乖離がますます大きくなり、自分は文字通り「あり得ない世界」にいるかのようなことになっていきますが、それは自分にとっては「現実の世界」であるとしか知覚できません。

その結果として、「人はそれぞれ自分の思い込んだ世界を生きている」という状態になっています。

自分は、自分が思い込んでいる「世界」の中を生きていて、実際の世界は、完全に意識の水面下に沈んでしまっています。

だからこそ、自分が思っている「世界」から、世界を解放しようというわけです。

そしてこのことを日本語では、「手放す」と言います。

「世界というものはこれこれこういうものだ」と、しっかりと握りしめていた世界解釈を手放すことにより、やがて、世界とは本来はどういうものであったのかが、少しずつ見えてくるというわけです。

ただし、その知覚のゆがみが本格的にほどけていく過程で、まるで世界が完全におかしくなったかのような、あるいは、人々が完全におかしくなったかのような、さらには、自分が完全におかしくなったかのような、つまり、知覚が完全におかしくなったかのような状況を通過します。

それは、自我による世界解釈が本格的にほどけていくときに、一時的に、何もかもが正しく知覚できなくなるわけです。

それは、知覚の対象が、自我による解釈で構成された「世界」から、実際の世界を知覚するようにと、根底から大変動が起きるため、一時的に何もかもがぐれんとひっくり返るようです。

そのときに、無意識の中に抑圧していた闇の信念が、洗いざらい「現実化」するために、何もかもがおかしくなったとしか思えない状況が展開「しているかのように見える」わけです。

その渦中においては、実際に、建物などの形がゆがんだり、存在していないはずのものが見えたり、どこへ行っても人々が自分の噂をしているとしか思えなくなったり、さらには、「神の声」が聞こえてきたりなど、いわゆる「気が狂った」状態になります。

それらはすべて、自分が無意識に信じていながらも抑圧していた信念が、一通り「現実化」していくわけですが、しかしその間もずっと、実は、実際の世界は依然として通常通りです。

その一時的な混乱期のことを奇跡講座では、「実相世界への橋」と呼んでいて、そこを通り過ぎることを、「実相世界への橋を渡る」としています。

この期間のことを禅では「魔境」と呼びます。

そしてまた、このプロセスのことを、ギリシア神話では「パンドラの箱」の物語として継承しているわけです。

パンドラの箱とは自分の心のことであり、箱に蓋がしてあるのは、奇跡講座的に言えば、罪悪感の入っている瓶に蓋がしてある状態です。

だからこそ、箱の中の「悪いもの」が洗いざらい出て行ったら、最後に「希望」が残ったというのは、もうおわかりのように、神に由来する自分本来の光がありありと自覚できるようになったことだ、というわけです。

そしておそらくは、これと同様のモチーフが、日本では、岩戸開きの神話として伝承されているのだと思います。

ただし、細部に関してはかなり異なっているというのは、フォーカスしているところが異なるからなのでしょう。

高天原は太陽にあるという伝説もあるようですが、空に輝いている太陽とは別に、自分の中にも霊的太陽が眠っているのであり、その、内在する自分の太陽が目覚めると、「ここ」はすでに高天原です。

それが、岩戸が開けるということなのでしょう。

そのときに、世界は明るく輝きますが、それは実は、自分の中の輝きが解放されたために、すべてが輝いて感じられるというわけです。

そしてこれは今のところはまだ、現実のニュアンスの認識とでもいった側面で比喩的に感じられるにとどまっていますが、いずれこのことが物理的にも感じられるようになる、つまり、世界や事物などが実際に輝いて見えるようになるのだろう、と思っています。