アセンションの「終わり」

一つ分かったのでシェアしますね。

どうやら、「アセンションの必要はなかった」とわかることがアセンションだったようです。

アセンションだと一般的に思われているものは、どうやら、実はディセンションだったようです。

ラカン的に言うと、一般的に思われているアセンションは、象徴界におけるアセンションでした。

平たく言うと、一般的にアセンションだと思われているものは、「アセンションしている「つもり」になる」ことだったわけです。

ですから、象徴界というのも、おそらくは、「「つもり」の世界」、なのでしょう。

例えば、「実践している「つもり」」というのも、そうですね。

「実践している「つもり」」というのは、ご本人にとっては、「まさに自分は実践している」という自覚のことを指しています。

自己側と他者側の見え方の違いが見えてくると、こうしたことは「単なる事実」でした。

こういうことが見え始めてきたときは、なんだか空恐ろしくなってきましたが、だんだん、あほらしくなってきました。

そもそも、自分はずっと、一体何をやっていたんだろう、というか。

「しらけ鳥」がいっぱい飛んでいるというか。

意識覚醒とは「しらける」ことだったのだろうか、とか。

で、アセンションしつつある「つもり」になっている人は、つまり、これから「方向転換」する段階なので、それでいいわけです。

「それは違う」とかって目くじらを立てる必要はありません。

自分もまたかつてはそうだった、つまり「いつか来た道」ですから、むしろそれこそが必要だということも分かりますから。

いったん、「つもり」が「積もり積もって」反転に転じることによって、「そのつもりもなく」存在することができるようになるわけですから。

これを奇跡講座的に表現すると、自分が赦せないと感じる人は、赦せない自分のことだったので、必要なことはただ自分を赦すことのみなわけです。

ただ、こういうことを公言すると、「こんなに偉そうなことを平然と言いやがるとは、こいつは何様のつもりだ」になるので、こういうことはもう言いません。

正確に言うと、「ここ」は「わかった」人にだけ見えるので、これからは「ここ」でシェアしますね。

追記しますと、これは要するに、アセンションしている「つもり」が終わった、ということです。

本当のアセンションは、実は、自分がどうであるかにかかわらず、今現に、全体として粛々と進行しています。

そのことを奇跡講座では「神の救済計画」と呼んでいます。

自分はただ、もうこれ以上それに逆らい続ける必要はない、つまり、「悪あがき」する必要はなかった、とわかったということですね。

新しい始まり

昨晩(6月20日)から今朝にかけて、全ての人がその人なりの形で、今までの自分の努力なり探求なり模索なりに関して、自分なりに、できることは全てやったという手応えを感じたようである。

こうしたことは実は常に、分離したことのない心のレベルで起きているが、個人としての自分はそれを、自分なりの個別的で具体的な形を伴ったものとして味わっている。

そうした、いわば「同時多発性」とでもいうようなものがわかってくると、分離したことのない全体としての心と、個人としての心との連関もまた分かってくる。

そして、意外かもしれないが、確固たる自我という感覚を持つことは、実は必要不可欠なのだ。

これは、文字通りの厳密な意味での自我、つまり、奇跡講座で言われている、神か自我かという究極の二者択一的な意味での自我とは異なる。

それどころか、実は真逆であり、ここで私がいう自我こそが、幻想の世界の中では「神の国」と呼ばれているもののことである。

厳密には、これは、「神の国の種」と呼ぶ方が、より適切かもしれない。

「よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書、12.24)

これはまた、この番号が示唆していることは、このくだりを体験することは、いわば「クリスマスイブ」であることも示唆している。

つまり、神の子の復活の「前夜祭」でもあるということである。

ここで言う「一粒の麦」、つまり私の言葉で言う「神の国の種」が「死ぬ」というのは、何も、一般的に思われている自己否定とか、あるいは「無我の境地」とか、あるいは「我を捨てる」といったことではない。

それは、種が発芽できなくすることである。

またこれは逆に、個人としての自分を発揮して生きる、ということでもない。

これは、種が種のままであることである。

そうではなくこれは、「種」としてのアイデンティティが「死ぬ」、言い換えると、個人としての意識の空間曲率が反転することを意味している。

種は種としては死ななければ発芽することはできない。

しかしそれは単に、種としてのアイデンティティが「死ぬ」ことであり、その種が持ち込んできた生命性そのものは、そのことにより無限大に発散する。

つまり、物質世界に神の国が展開されることを意味している。

「「神の国は、汝らの中に在るなり」という言葉が、真に何を意味するかを理解することは難しい。(中略)「中に」という言葉は不要である。神の国とはあなたのことである」(T-4.III.1:1,1:3-4)

ここで、一般的には、この「あなた」というのは、「一なる子」のことであり、個人としての自分のことではない、というのが、一般的な解釈のようである。

しかし、全ての人は「一なる子」の多様な一側面であり、どの側面にも「一なる子」の全体性が反映されている。

そして、ここでいう「あなた」のことが、ヨハネによる福音書では「一粒の麦」と言われていて、私なりの表現では「神の国の種」ということになる。

つまり、「一粒万倍日」とは、このたとえと何らかの関係があるのであろう。

これから、こうしたことを味わう人が、おそらく爆発的に増える。

そのことによって、今までの意識の延長線上だと、何もかももう終わりだ、としか感じられなかったことの「有名無実ぶり」が自分にとって明らかになる。

これが、聖書では「世界の終わり」として書かれていることの、一つの段階のことである。

ここにおいて、従来の意味での世界は、一人一人の中で、実質的には「終わる」からである。

健康診断の「正常」に思う

健康診断の「正常」とは、多くの場合、平均値を中心に高低95%の人の数値を言い、「異常」とは、その範囲を超えて、高すぎる、あるいは低すぎる数値のことだ、という意味のことが、ある健康関係の本に書かれていました。

これは実は、統計学で言うと、「95%の範囲」というのは、標準偏差の2倍の範囲のことです。

標準偏差というのは、あるデータにおいて、そのデータの「データ全体の平均値からの偏り具合」の平均値のようなものです。

そして、標準偏差の2倍の偏りの範囲の中には、データ全体の95%が含まれるということです。

これはどういうことかというと、つまり、健康診断の「正常値」というのは、おそらくですが、それまでの健康診断の結果を統計学的に処理して、新しい「正常値」を算出しているのではないか、ということです。

ですから、健康関係の情報で知られていることとして、血圧の正常値が年を経るごとに下がっている、というものがありますが、これもまた、健康診断の結果である血圧のデータが、年を経るごとに、全体的に次第に下がっているから、ということなのかもしれません。

もちろんこのような捉え方だけでは、正常値を操作することで「異常値」の人の数を恣意的に増大させ、薬の需要増を喚起する、という陰謀論的な目的意識が混入する可能性を、充分に排除することはできません。

ですが、必ずしもここに陰謀論を想定する必要はない、というのは、例えば、気象データにおける、異常気象などの定義も、本質的には同様の統計学的な手続きによるものでからです。

ここからわかることは、例えば、過去の健康診断から得られているデータと、現段階での正常値との間に、ちゃんとした統計学的な連関があるかどうかを検算すれば、ここに数値の操作という陰謀論が混入しているかどうかの可能性については、検証することができるのかもしれない、ということです。

私は面倒なのでしませんが(笑)。

さて、私が感じたことは、陰謀論のあるなしやその是非ではなく、健康診断の「正常値」は、あくまでも過去のデータに基づいたものだとすれば、それは「参考程度」にとどめておけばいいのではないか、ということです。

つまりそこには、例えば、「そもそも健康とは何か」といったようなことに基づく根拠は何もない、ということだからです。

これは、精神医学で広く用いられている、DSMというマニュアルでも同様です。

DSMは、それまでの診察などから得られた知見に基づいて、常に病気を再定義していますが、DSMが診断基準として依拠している手法は「操作的診断基準」と呼ばれています。

https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E6%93%8D%E4%BD%9C%E7%9A%84%E8%A8%BA%E6%96%AD%E5%9F%BA%E6%BA%96%EF%BC%88%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%96%BE%E6%82%A3%E3%81%AE%EF%BC%89

このサイトでは、こう書かれています。

操作的診断基準は、原因不明なため、検査法がなく、臨床症状に依存して診断せざるを得ない精神疾患に対し、信頼性の高い診断を与えるために、明確な基準を設けた診断基準である。操作的診断基準を用いて均一の患者群を抽出することによって、病態解明の研究や疫学調査を推進することに加え、治療成績や転帰の比較検討を可能にするといった意義がある。

ですから、例えば、DSM-5による「うつ病」の「定義」は、このようになります。

以下のA~Cをすべて満たす必要がある。

A.
・以下の症状のうち5つ(またはそれ以上)が同一の2週間に存在し、病前の機能からの変化を起こしている。
・これらの症状のうち少なくとも1つは、「1 抑うつ気分」または「2 興味または喜びの喪失」である。

(以下、9つの条件が列挙されていますが、省略します)

B.
症状は臨床的に著しい苦痛または社会的・職業的・他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。

C.
エピソードが物質や他の医学的状態による精神的な影響が原因とされない。

これらの条件をすべて満たしたときに、「この患者はうつ病である」と診断することになります。

ですからここには、例えば「そもそもうつ病とは何か」あるいは「この人にとって、うつ病になることの意味とは」といったような、再現性がなく、また個人差のある背景などは基本的に捨象されています。

もっと言うと、「こうした様相を呈している状態は本当にうつ病、あるいはそもそも病気と言うことができるのか」ということもまた、当然ながら含まれていません。

ですから言い換えると、これは、「これなら、誰が見ても「この人はうつ病だ」と判断するでしょ?」みたいな形を集めたものだということです。

そのために、心の病を統計学的に処理することが可能になり、データ分析による研究などにはとても有利に作用します。

こうしたことが、操作的診断基準によって可能となる、というのが、DSMなどの方針なわけです。

これは、極めて「科学的な手法」であり、このこと自体には、いいとか悪いとかはありません。

人の判断機能を、特定の形にのみ着目すれば、実際にこのようになるのでしょう。

問題は、一つには、この診断基準自体がどのようにして定められているか、です。

そこで冒頭のことに戻ります。

最新版のDSM-5では、前のバージョンであるDSM-IVとどう変わったのかについて、以下のサイトでごく簡単に紹介してあるようです。

詳細は別として、つまりこれは、「どう分類するか」に関する変更だということです。

ですから、名称がコロコロ変わってしまうため、例えば、少し前まで一般的だった「アスペルガー症候群」という発達障害の一種は、名称が消えました。

https://kachi-memorial-hospital.jp/blog/950/

もちろん、精神的な問題をどう捉えるかに関して、できる限り的確に捉えたいという動きがあるのは事実ですが、しかし、こうもコロコロ変わるのは、とどのつまり、心の病とは何なのかが、実はよく分かっていないから、というのもあると思われます。

ですから、こうしたところに表れている診断基準の変化と、冒頭に述べた、健康診断の「正常値」の変化とは、おそらく根が同じものである、つまり、それまでのデータの推移などから次の基準を決めている、というものであり、そこには実は、病というものに関する本質的なことは何もない、ということです。

これがいいとか悪いとかではなく、そうしなければそもそも議論や分析や研究などの対象として取り扱うことができないから、なんですね。

質的な差異を捨象して、すべてを量的な差異に置き換えないと、そもそも分析的な研究の俎上には乗らないという、科学の持つ「宿命」のようなものがあるためです。

言い換えると、たとえ自分のデータが「正常値」から外れていたとしても、確かにそれは、「自分の計測データが「正常値」から外れている」ということを意味してはいますが、逆に言うと、ただそれだけのことであり、それ以上でもそれ以下でもない、ということです。

つまり、「データが正常値から外れている」というのは、冒頭で述べたように、そのデータが、それまでのデータの積み重ねから統計学的に算出された標準偏差の2倍の範囲に入っていない、ということを意味している、ということです。

そのことが自分にとって何を意味しているのかは、つまり、ただ自分だけにしか分かりません。

一つだけ、こういう捉え方もあるという「実例」を挙げておきます。

高血圧と診断されるような、「血圧が正常値より高い状態」も、今はそうなる必要があるからそうなっている、という捉え方からすると、例えば、それだけ高い圧力で血液を送り出す必要があるからだ、ということになります。

あるいはそれだけ高い圧力が血管壁にかかっていることの意味は何か、という捉え方になります。

すると、例えば、高齢になって動脈硬化などが起きていると、血管壁が硬くなっているために、結果として血圧も高くなります。

また、例えば体や脳が大量の血液を必要としているために、絶えず血圧を高くしておく必要が、何かあるかもしれません。

ですから、ただ降圧剤で血圧を下げると、その間接的な影響が思わぬところに派生するのは、むしろ当然のことになります。

体というのは実は、それだけ微妙かつ絶妙なバランスを取りつつ、常に全体的にバランス調整されているからです。

こうしたことを踏まえて、健康診断の結果や、あるいは診断結果を受け取る必要がある、と、個人的には感じています。

「啐啄同時」に見る対関係

「啐啄同時」とは、実は、「反啐啄」とでも言うものと、いわば対関係になっているようだ。

つまり、ひなが殻の中から出ることを助ける親鳥もまた、親鳥なりの殻の中から出ることを、ひなに助けられているというか。

まあ、これも円心関係です。

「機が熟して」いる人同士が、お互いに、他方にとっての、ひなであると同時に親鳥でもあるときに、これが生じる。

「鳥は殻の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」(『デミアン』、ヘルマン・ヘッセ著。この箇所は新潮文庫版、p.136)

そして、この『デミアン』の言葉に対する「答え」が、『荒野のおおかみ』、およびそこに登場するヘルミーネです。

ヘルミーネとは、『荒野のおおかみ』の主人公のハリー・ハラーのパートナーの女性のことですが、おそらくは、ヘルマン・ヘッセ自身のアニマのことでしょう(「ヘルミーネ」とは、「ヘルマン」の女性形)

電車の車両に学ぶ対人関係の「実相」

この動画は、電車の連結部分で、自分の乗っている車両と隣の車両との揺れ具合を撮影したものです。

手ぶれ補正機能のため、動画が、自分の乗っている車両ではなく地面に対して静止するように補正されていて、自分の乗っている車両もまた揺れているかのように写っていますが、実際に電車に乗って、このように隣の車両を見ているときには、自分の乗っている車両はスムーズに走っているように見えます。

さて、そうすると、自分の乗っている車両はスムーズに走っているのに、隣の車両の方がやたらと揺れているように見えます。

では、その隣の車両に移動して、さっきまで乗っていたこちらの車両を見てみたらどうなるでしょうか。

隣の車両から見てみると、隣の車両の方がスムーズに走っていて、揺れているのは、さっきまでスムーズに走っていると思っていた、こちらの車両の方であるかのように見えます。

つまりは、対人関係においても同様のことが起きているわけです。

対人関係がうまくいかないときに、問題があるのは相手の側であるかのように見えます。

しかし、実はどちらもそれぞれある、ということです。

しかし、自分の側の問題は、自分からは見えません。

問題とは、相手との関係の「うまくいかなさ」として知覚されるからです。

そしてその問題は、相手の側にだけあるかのように見えます。

で、電車が揺れながら走っているのは、心地いいですね。

座席に座ってぼうっとしていると、思わずうとうとしたりします。

これもまた、車両の「揺れ」のなせる技です。

電車の車両に対人関係の極意について教わりました。

闇とは反転した光であった

ふと思いついて調べてみたら、やはり、「薬師如来=ラファエル」説を唱えている人がいた。

また、「不動明王=ミカエル」らしい。

また、東方浄瑠璃世界とインディゴチルドレンとも、何か関係があるのだろう。

「瑠璃色=ほぼインディゴ」なので。

私もこのように感じていました。

以下、あるブログの記事より。

https://emerald-heart.blog.ss-blog.jp/2009-02-05

「私が氏子でもある天川神社と関わり、数冊の神様についての本を書かれたT氏もその著書の中で言う、
マリア様も天照大神様も同じもので、みた人のフィルターを通した結果、 違う姿に見えているだけであると。」

また、同じ記事からですが、これも完全同意です。

「この観点から言うと、宗教戦争ほどおろかな争いはないのかもしれません。
同じ存在を崇拝していながら、お互いで相手の信じるものを否定しているわけです。
この混乱から脱け出すためには、他者を介さないで自分で神なる存在とつながることが必要です。」

光と闇というのも、本質的にはこれなので。

光の側から見た闇の側に立つと、光と闇の関係が完全に逆転していることがわかりますから。

ですから、どちらも元は光なのであり、ただ、互いに反転関係にあったというわけです。

人生ドラマの生じる現場

人が本当に自分のしたいことをしているときは、その人の様子を他の人から見ていると、何か「ネガティブな」「よくない」「あやしい」雰囲気を醸し出しているものです。

ですから、他の人は本人を全力で止めにかかったり、たしなめたり、説得したりして、本人が「ポジティブな」様子になるようにします。

ところが、他の人から見て本人が「ポジティブな」様子になったときというのは、実は、その人が自分の意志を貫くことを諦めたときなんですね。

それは、自分を諦めて、相手の言うなりにしたからこそ、相手の意識を受けることで「輝いて」いるわけであり、本人自らの内なる輝きではありません。

そして、他の人は、「ポジティブに」なった本人の様子を見て安心しますが、実のところ、本人の中では、もやもやした気持ちがわだかまっています。

ただしそこで、自らも他の人の意志をくじくことに専念するようになるか、あくまでも自分の意志をいつか貫こうとするか、は、その人次第ですが。

例えばこうしたメカニズムによって、人生のドラマは生じています。

ただし、覚醒すると、このギャップは消失して、本人の内的自覚と外見との「ずれ」はなくなるので、そこではじめて、人は健康になることができます。

求不得苦に関するアプローチ

どうやら人は、本当に目を向ける必要がある、まさにそこにだけは絶対に目を向けないようにして、そこに目を向けたときにだけはじめて得られるものを得ようとしているために、「求めても得られない」という苦しみが長引いているようである。

なんかもう、神の救済の計画とはつまり、「全人類妙好人化計画」なのかもしれないです。

宇宙戦艦ヤマトと意識進化と現状再認

「地上に降りた最後の聖霊」の追記です。

「君のひとみは10000ボルト」の歌はこれです。

ちなみに、歌詞の中の「ミストレル」とは、ぐぐってみたら、南東フランスの季節風だとのことでした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB

しかし、あらためてこの歌を聴きましたが、今聴くと、なんかスピな印象もありますね。

「君のひとみは10000ボルト」というのは、今の表現では、さしずめ、「目力がとても強い」ということなのかもですね。

このように表現してしまうと、ロマンが台無しですが(笑)。

ただ、歌の中では、すぐに去って行ったような印象がしましたが。

テレサ・テンとのデュエットだったのは初めて知りましたが、最後の部分が見事にハモっているのを聴いて、号泣レベルでした。

このようにして、ガミラス(「亡き父の亡霊」による際限のない判断、という攻撃性にとりつかれて病んだ男性性)とイスカンダル(男性性による無際限な判断という「心ない仕打ち」のために、慢性的にトラウマを受け続けて、瀕死の女性性)とのカルマが癒やされていくのかも知れません。

ま、ガミラスとイスカンダルの対関係とは、スピで言う「オリオン・サタン」の「二側面」だったのでしょうね。

いわゆるサタンには、破壊的な面と同時に、覚醒と救済をもたらす面とがあった、というのは、聖書のヨブ記にも書かれています。

あるいはあれは、奇跡講座で言うならば、自我と聖霊との関係に相当しているのかもしれません。

また、ガミラスとイスカンダルの状況は、当時においては、インナーマリッジによる個人内パートナーシップは、どうしてもあのように崩壊的になっていくという「なれの果て」の姿だったわけです。

ですがあれは実は、いわば地球の「対称形」であり、意識進化の「折り返し地点」として、大マゼラン星雲に仮想的に投影された連星系だったわけですが。

ですからあれは実は、自己の「核心」に到達したときに見えてくる光景だったわけです。

これこそが、心が生み出されてくるところにある構造だったわけですね。

つまり、ガミラスとイスカンダルは「実は分裂していた心の中の地球」の姿であり、そこから、この地球を救うべく、コスモクリーナーの「設計図」が、占星術では男性性であるところの火星に不時着したというわけです。

(ちなみに、火星とは実は女性性なのではないか、という解釈も、マイナーですが、あることはありますが、この辺りの解釈のブレは、おそらく、「鋏差」を考慮しないと十分に解明できませんが、外惑星系団が、太陽系ですでに嫌と言うほど繰り返されてきた事件、つまり、「「かつてマルデクが、際限のない判断という「鋏差過剰」のために、その衝撃波によって崩壊してしまった」という事件が、いくら、破壊されたマルデクを地球にかぶせて、再統合してマルデクを再配置して、精神の交差を何度繰り返しても生じてしまう」という、「全体から分離し、全体性が繰り込まれた極小無限ループ状態」によるトラウマ、つまり、「「精神の交差」に伴う「破壊的な結末」が再現され、鋏差過剰がさらに増幅されるのではないか」、という恐怖を保持したままであるために、未だに、内惑星系団に対しては「不干渉」を決め込んでいるために、進化プロセスがどうしても、一種の「立ち往生」状態になっています)

ですから、バシャールで以前、これから地球が「ポジティブな地球」と「ネガティブな地球」とに分かれていくという情報がありましたが、それが意味していたのは、もう書くまでもありませんね。

ですから、あのアニメの中の「放射能」とは、山本七平氏が「「空気」の研究」をしていますが、その「空気」のことだったのかもしれませんね。

実際にどうなのかはわかりませんから、これはあくまでも「個人の感想」ですが。

あと、途中にあったバラン星というのが、シリウス領域に到達して、イエスさんの言う「単独者」として生きはじめた人の様子を、当時の価値観で捉えたものだったのでしょう。

ですから、宇宙戦艦ヤマトとはまさしく日本人の「魂」であり、あのアニメは、実は、意識覚醒の「旅路」だったわけです。

ただし、当時は「意識進化」の機運がそれほど盛り上がっていなかったために、そうした側面に関しての描写のディテールには、あまり強度がありませんが。

例えば、遊星爆弾とは、「ハーベスト・ビーコン」、あるいはその兆しだったわけですが、あのアニメが制作された当時はそれが、むしろ問題を強くする方に作用していたこともうかがえます。

ということは、ハーベスト・ビーコンの他にも、癒やしと救済のための「信号」が太陽系内に届いているはずであり、そしてそれは、火星に「不時着」した「癒やしと浄化のための「装置」の設計図」という形をとっている、ということが予想され、それはまた、実はサタンに内包されている女神性の、もう一つの側面が、救済のための自己犠牲の精神によって「捨て身の行動」に出た、その最終的なところにおいてもたらされる、ということがうかがわれます(スターシャとサーシャは姉妹)。

ということはつまり、これが奇跡講座だったのかもしれません。

つまり、奇跡講座とは、コスモ・クリーナーの「設計図」であり、それを自分の中において「展開」させることで、自分の心の中に、「心のコスモ・クリーナー」が実装される、ということなのでしょう。

ただし、文章となっている奇跡講座には、受信上の問題のために、実はいくつかのノイズ、つまりバグが入ってしまっているため、「設計図に忠実に組み立ててもコスモ・クリーナーが充分に起動しない」という状況がずっと続いていたため、私は現在、個人的に、設計図から自分なりにノイズの除去をしつつ試行錯誤を繰り返して内的形成させて一通りの完成をみた後に、実際に「マイ・コスモ・クリーナー」を作動させてみた結果を元にして、奇跡講座の「デバッグ」の作業をしています。

これは、人間には、「人間である」こと自体に起因する一種の「難点」がどうしても存在してしまうことによるものであり、ヘレンさんに何か問題があったかなかったか、といったこととは「別次元」の話です。

まあ、早い話、「人間である」こと自体がそもそも、一種の「プログラムミス」によるものなので、つまり、「必然的なミスプログラミング」をさせるために、非常に深い無意識のレベルにおいて、言ってみれば「あらかじめ諸変数ないしは諸関数、もしくは論理形式の定義を改ざんしておく」とでもいうような、いろいろな操作が意図的にあらかじめ加えられてあったから、ということです。

しかしこのこと自体もまた、いわゆる「悪意ある攻撃」によるものではなく、このことによって、すべての問題を外在化させることが可能になりました。

そして、心理学において経験的に明らかになったように、問題とは、外在化させることではじめて観察可能になり、解決への糸口がつかめますから、つまり、意識の発生する原点において意図的に「ミスの発端」が仕込まれていたことによって、心の内容がすべて反転した形(裏返った形)で外在化され、そして、その結果を観察することにより、そもそも一体何が問題の本質だったのか、ということを明らかにする、という目的があったわけです。

ですから、つまり、人間とは、たった一人の人間、つまり神の子キリスト、が、諸反転を繰り返すことによって無数の写像として展開された状態、いわば「広義のマルチロケーション現象」を作り出している状態であり、神から託された思い、つまり全体救済という「神の計らい」(神の救済計画)に一人一人が与ることによって、はじめてその機能を十全に発揮するようにできている、ということです。

ですから、真の問題は実は霊界にあったのであり、この世界とは、霊界の問題を解決するための、「実験と検証の場」として仮設的に設置されていた、ということだったのでしょうね。

だからこそ、この世界には実は、はじめから問題の本質は存在しなかったことになりますが、ごく簡単に言うと、そもそもこの世界自体が、実は霊界の問題の射影空間的な反転写像だったということです。

なので、中毒、ないしは依存症からの回復の現場で、よく、「底尽き」と呼ばれる段階のことが知られていますが、そのように、この世界とはいわば一種の「底尽き」を起こすための場だった、ということなのでしょう。

なぜなら、依存症で苦しんだ人なら体験的に理解していることですが、人はどうしても、「底尽き」まで達しないと、神から離れ続けていく意識の向きを変えて神に「向き直る」こと、つまり交替化を引き起こすために本当に必要なこと、にはどうしても手がつけられない、という「宿命」のようなものがあり、だからこそ、「ここから先はもうないよ」と、否応なく実感せざるを得ない場が、どうしても必要だったわけです。

ま、どうやらそれでも人類は、いわば「分離中毒」を互いに増幅し合うことによって、本来の目的を忘れ去り、方向を転換しないままに強引に突き抜けようとしすぎたために、「想定外」の状況をいろいろと作り出してしまっていた、ということのようです。

そのために、日月神示や奇跡講座やOCOT情報などによって、プロセスを「再調整」する必要があった、ということのようです。

ま、やっぱり、計画の中でだけで展開させる、つまり「想定内」の状況だけだと、まさに「そう手えない」、つまり、「そんなに手がない」つまり、選択肢のバリエーションが少なすぎるという不満がどうしても残るために、つまらなく感じるものですから、やはりどうしても、必然的にこうなったということのようです。

まあ、ですから、その方向にはもう何も存在していないため、いくらその方向を極めようとしても本当にもう何もありませんから、実際にはそれは、どんどん突き進んでいっているようでありながら、実はプロセスがどんどんすぼまっていき、ただ同じ場所で延々と「くだを巻いている」だけの状態ですから、そのことをOCOT的には「スマル」と呼んだのでしょうね。

ま、ですから、従来の世界自体がいわば「スマルの中」だった、という言い方もできなくはありませんから、この、時空がすぼまっていくプロセスが一つの極限を迎えたのが、つまり、2012年12月21日でしたか、だったわけでした。

ですから、2013年以降は実は、実質的には、「すでに反転が成し遂げられた状況」が始まっていますが、言ってみれば一種の「慣性の法則」によって、従来の世界が未だに存続している「かのような」状況が続いていたわけです。

ただし、スマル状態がこの世界に再反映された「自我」という状態は、実は、「くだを巻いている」状態が反転して「とぐろを巻いている」状態になっていて、それが直線的に展開開始することが、つまり、クンダリーニ覚醒だったわけであり、なんと、実は自我こそが「覚醒の鍵」だったという、超絶技巧的逆説状況だったわけですね。

ま、このことを普通の言葉で言うと、つまり「奥義の中の奥義」ということになるのかもしれませんが。

だからこそ、自我というものを盲目的に、思考停止的に、頭ごなしに「悪いもの」と決めつけて、そこで心的プロセスが延々とフリーズしていた、というのも、実は、諸情報のバグの原因となっています。

しかしそのために、さらに問題の「純度」が上がっていったというのもまた事実であり、つまり、中途半端ではうやむやになってしまうため、やはり、どうしても純度を極限まで上げて、形態と内容とが完全並行関係になるまでに、二元論的な並行化が極まらないと、問題の本質のみを分離抽出することができなかったわけであり、だからこそ、ここまで達しないと、本当の意味では明らかにならなかったというのも、私は体験から分かりました。

とりあえず、こんなところですかね。

「地上に降りた最後の聖霊」

「君の瞳は1万ボルト」とか、昔あったけど、「君の心は1万馬力」とかでは、ちょっとダサいですね。

ま、「地上に降りた最初の聖霊」としてなら、すでにイエスさんがつばをつけてしまいましたしね。

さすがに、「地上に降りた最後の聖霊」とかだったら、なんかターミネーターみたいですが。

「1万ボルト」の瞳を持った、「地上に降りた最後の天使」は、もしかして黙示録で言う「第七の天使」なんですかね、なんて言ったら、いきなり終末感が漂うw

ま、つまりあの歌に登場する、1万ボルトの瞳を持っている女性は、つまり、すでに天使的領域に至るまでに覚醒していたのかもですね。

ですが、自我によってズタズタになり、次第に精神を病んでいった、という可能性もあり得ますが。

ま、男が無自覚のうちにやってしまうのは、つまりこういうことです。

ですから、男性がまずもってすべきことは、「男は黙ってサッポロビール」ならぬ、「男は黙って自我解消」ですね。

(「宇宙戦艦ヤマトと意識進化と現状再認」に続く)

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