「正しさ」と「好き嫌い」と局所座標系と極座標系と

(それぞれの話題が濃すぎるので、いずれ少しずつ読み解いていこうと思います)

現代はいろいろ問題も山積しているが、しかしその一方、例えばクラシックにしても、バロックから現代音楽まで、よりどりみどり聴き放題というのは、当たり前だが歴史上、かつてなかった状況である。

さらに、動画サイトが普及する以前は、音楽を聴くためにはラジオをまめにチェックするか、あるいは、好きな音楽を聴きたいならばCDを買うとかレンタルするしかなかったが、今では、クラシックならば大半の曲が無料で聴き放題である。

亡くなったパートナーはクラシックに精通していたが、主としてFMラジオをまめにチェックすることで見識を広げていた。

昔は、カセットに録音するリスナーのために、新聞のラジオ欄には、音楽の大まかな演奏時間が書かれていたりした。

それはともかく、彼女の音楽の嗜好は、基本的に、自分が好きかどうかであり、男性にありがちな、その音楽自体がどうであるか、というのとは根本的に異質であり、それが私にはとても新鮮だった。

なぜならば、男性にとっては、「私は~が好き」と表明することは、時として「信仰告白」というぐらいの意味があったりするからだ。

しかし、女性の場合は、自分が好きか嫌いかという、いい意味での「自分中心性」が普通であり、男性のように、とりあえず個人的な感性を脇に置くというような意識のあり方は、ただストレス以上のものではないようだ。

だが、覚醒すればわかるが、男性がなぜか重視する客観性にしても、結局は、その根底には、主観性が潜在化しているわけであり、客観性は主観的に使いこなすことで、はじめてその真価を発揮する。

その逆に、主観性に関しては、主観性を客観視することで、「単なる主観に過ぎない」というありがちな批判から自由になる。

なぜならば、人が生きて物事を体験し、捉える主観的な形式は、本質的には万人に共通の基本的な枠組みや構造があるのであり、その意味では、つまり、万人に普遍的に通用するという意味では、主観性とは実は客観的だからである。

科学が用いる客観性は、例えば、時空の認識の形式にしても、局所座標系と呼ばれるものであるが、実はこれは、主体の位置を無限遠点に置いたときの、原点近傍の認識の形式である。

つまり、客観性という人間の内面においては、主体の位置は無限遠点において潜在化しているということであり、だからこそ、客観性とは主体が潜在化しているというわけだ。

しかし、女性の認識の形式は、数学的には極座標系と呼ばれるものであり、すべての対象を、原点、つまり自分あるいは自分が重視する何か、との距離と角度によって位置付ける、つまり、原点との位置関係によって対象の立場が決まるわけであり、言い換えれば、局所座標系とは「正しさの構造」であり、極座標系とは「好き嫌いの構造」なのであろう。

だからこそユングが、感情機能とは合理的な判断であると言ったのは、局所座標系と極座標系とは、どちらかが正しくてもう一方が間違っている、というものではなく、認識の形式における質的な差異のことだからである。

この構造はあちこちに見ることができて、例えば、フラットアースという、日本語で言うと「地球平面説」というものがあるが、あれはつまり、自分の日常的な体験の感覚を全体性へと敷衍するときに、必然的に生じる認識の形式であり、言わば極座標的認識による世界観だということになる。

また、天動説から地動説への推移は、「パラダイム・シフト」の典型例としてよく引き合いに出されるが、実は、「パラダイム」という概念を提唱したトーマス・クーンは、パラダイム同士には優劣はない、という意味のことを言っている。

つまり、天動説と地動説とでは、どちらかが正しくてどちらかが間違っているということはなく、どちらも、現象をある形式に則って説明しているという点では対等であり、ただし、地動説の方がより整然と説明できるために採用された、というものが、クーンの主張である。

物事をよりシンプルに説明できる方が、より「真実」に近い、という意味の判断基準は、「オッカムの剃刀」と呼ばれていて、科学は基本的に、この判断基準に則って、知識を蓄積してきた。

ただしそれは、複雑な捉え方が間違っているということは必ずしも意味していない。

複雑な物事を複雑なままに捉えようという動きは、近代になって確かに勃興してきている。

そしてそのことにより、局所座標系から極座標系への乗り換えが、そして、極座標系同士の変換へと意識のフォーカスが移行しつつある。

自己と他者の一致点を見いだすのが困難なのは、極座標系同士の変換は非常に複雑になることと通底している。

局所座標系のみに固執していると、局所座標系においては座標系の平行移動は単純なため、原点は事実上、どこに位置させても変わらないように感じて、自分も他人も客観的に同一のフラットなものとして捉えられ、自分はどうでもいい存在であるかのようにも感じ、また、他人に共感するのはたやすいことだとの誤解が生じる。

そして、実は共感するとは極座標系同士の変換に相当するため、困難であるということは、決してわからない。

極座標系はそれぞれがユニークな存在であり、そこには「かけがえのなさ」や「ナンバーワンよりオンリーワン」といった感覚が帰属している。

ところが、その唯一性は、実は、特定の極座標系から全体を見渡したときに生じる仮想的な感覚である。

特定の極座標系を基準にして、その拡張空間において他の極座標系を捉えると、それはとてつもなくゆがんだものとして捉えられるため、「ゆがみのない」極座標系は自分だけという感覚をもたらし、そこに唯一性が生じる。

逆に、目の前の「別の極座標系」から、今いる極座標系を捉える、というところに位置を変換すると、今度は、さっきまでゆがんでいた極座標系が「まっとうな」ものであり、さっきまでの、「唯一ゆがみのない」ものに思えていた極座標系が、今度はゆがみまくっているように見える。

つまり、複数の極座標系同士は、実は同じ空間に位置しているのではなく、極座標系空間同士には実は、存在論的な差異があることになる。

だからこそ、人と人とは同じ世界にいるようでありながら、実は異なる世界を体験していることになる。

しかしそれでも、特定の極座標系は、実は他の極座標系と本質的には同じであり、ただ、位置が異なるために唯一性という知覚が生じているのみである、という認識は、少なからぬショックをもたらす。

しかしそこにこそ、ある段階の解放が待っている。

つまりこれが、「あなたは特別ではない」(T-24.II.4:1)ということである。

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