「健全な分離」の必要性の序論

(最初にお断りしますと、ここで言う「分離」というのは、「あたかも分離のように感じられる状態」という意味であり、実際の分離とは必ずしも同じではありません)

昨年は「自分軸」という言葉が定着しつつありましたが、しかしその一方で、「ワンネス」ということもまた事実(だと言われて)います。

なんだか、自分を否定しないと場の雰囲気を壊してしまいそうで、つい、自分を脇に置いてでも場の空気を大切にしようとします。

しかし、自分軸を持てていないと、ただ苦しくなるばかりです。

ところが、です。

いざ自分軸で生きようとすると、まるで、場合によっては相手を全否定しようとするかのような感覚になることもあります。

極端に言うと、自分を殺して相手に合わせるか、相手を否定してでも自分軸で生きるか、というぐらいの二者択一です。

そして、ワンネスとか、あるいは「分離はない」というような言葉に、ただ踊らされているのみだと、どうしても選択としては、自分を殺して相手に合わせるしかない、かのようです。

あるいは、その中で、奇跡講座で言う「赦し」を実践することで、なんとかして当たり障りなく穏便に事を済ませようとか。

こうしたことは、残念ですが、これからは徐々に通用しなくなっていくような気がします。

ただしこれはあくまでも、「個人の感想」ですが。

結論から言うと、真のワンネスを体感するには、逆説的ですが、まず、「健全に分離する」ことが必要のようです。

言い換えると、このことを一般的に「自分軸で生きる」としているわけです。

今までは、自分を殺して相手や全体に合わせることで、「かりそめのワンネス」を作り出そうとするのが一般的だったため、そこから離脱しようとする動きに対しては、全力で止めにかかることが「善意」だったりしました。

しかし、そのように自分を殺して生きてきたからこそ、心に無理が蓄積したのではないでしょうか。

ただし、自分軸で生きることと、いゆる「エゴイスティックな」生き方とは、言葉上の表現においてかなりかぶっているため、ためらいもまた生じます。

では、イエスさんはどう言っているのか。

イエスが言った、「その父とその母を憎まない者は、私の弟子であることができないであろう。私のように、その兄弟とその姉妹を憎まない者、その十字架を負わない者は、私にふさわしくないであろう」(トマスによる福音書、55)

イエスが言った、「単独なる者、選ばれた者は幸いである。なぜなら、あなたがたは御国を見出すであろうから。なぜなら、あなたがたがそこから(来て)いるのなら、再びそこに行くであろうから」(トマスによる福音書、49)

(文章はいずれも、『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社学術文庫)

やや訳が読みにくいですが、いずれ、もっとこなれた訳を書く予定です。

「選ばれた者」というのは、現代においては少し表現に訂正が必要であり、当時の言葉で言う「神に選ばれた人」とは、現代においては、神を選ぶ決断をした人のことです。

ですが、ここで問題だったのは、神を選ぶには、その前にまず、自分自身を選ぶ必要がある、ということでした。

選択の主体を明らかにする必要があったというわけです。

ですから、「選ばれた者」というのは、外的な状況とは異質な、内心の自分を自分の中心に据えることを再決断した人のことだ、ということになります。

このことをキリスト教用語で言うならば、「聖別」ということになるのかもしれません。

つまり、自分自身を「聖なる者」であるとして、周囲から区別する、「引き上げる」ということです。

そして、その自分とはそのさらに内奥において神へと連なっています。

ここが従来の価値観では、「それはエゴだ」「それは自我だ」という捉え方になっていました。

そして、確かに、その人の様子を他の人から見ると、そのように見えなくもないのです。

だからこそ、他の人からどう言われようが、自らの心の状態に対して自己責任の原則を踏まえれば、それでいいのです。

これは、自己側の空間と他者側の空間の、存在論的差異が明確に認識されることにより、はじめて明らかになってきたことです。

しかし、分かってみると実にシンプルなことでもあります。

もっと平たく言えば、「自分が見ている空間」と、「自分が見られている空間」とは、実は全く異なっている、ということです。

その異なり、つまり差異、を見極めることができるところまで、いったん、分離がとことん極まる必要があったというわけです。

さて、まだ充分に書けたとはとても言えませんが、おぼろげながらにせよ、「健全な分離」の必要性がうかがわれることができれば、とてもうれしいです。

「聖別」という言葉に対する抵抗感のために追記しますと、自分自身をただ貫徹していった果てには、最終的に自分が全体へと発散し、解消されていき、すべての物事や人々までもが、実ははじめから「聖別されていた」ことがわかる段階があります。

ここに至って、はじめて、「聖なるもの」と「俗なるもの」の差異は解消します。

その時には、従来の意味での「自分」はもはやありませんが、しかしなぜか、自分はとてもありのままの自分で普通に生きることができるようになっています。

ですが、そこに至るためには、まず、自らの主体性を思い出すことが必要だ、というわけです。

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