永遠の平安への流れに乗った者とは

金剛般若経をたまたまぱらぱらと見ていたら、次のようなことが書かれていました。

「スブーティよ、どう思うか。「永遠の平安への流れに乗った者」が、「わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ」というような考えをおこすだろうか」

スブーティは答えた、「師よ、そういうことはありません。永遠の平安への流れに乗った者が、「わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ」というような考えをおこすはずがありません。それはなぜかというと、師よ、実に、彼はなにものも得ているわけではないからです。それだからこそ、「永遠の平安への流れに乗った者」と言われるのです。かれは、かたちを得たのでもなく、声や、香りや、味や、触れられたるものや、心の対象、を得たわけでもありません。それだからこそ、「永遠の平安への流れに乗った者」と言われるのです。師よ、もしも、永遠の平安への流れに乗った者が、「わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ」というような考えを起こしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう」

ちなみに、「般若心経・金剛般若経」は、中村元・紀野一義訳註で、岩波文庫で出ています。

薄いし安いですよ。

上の引用は、岩波文庫だと、p.59-61に書かれています。

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